ドラマや映画、演劇、小説、アニメ……。「この物語はフィクションです」と言うけれど、本当にそうなのだろうか?最近悩んでいたことが、スクリーンに映る。これまでの人生で信じていたものが、ステージで光る。心の中で「どうして分かったの?」と呟いてしまう瞬間がある。そんな物語に出会って、救われて、支えられてきた人も少なからずいるはずだ。フィクションってどこまでがフィクション?物語をつくる人に、そのことを聞いてみたくなった。
問いに答えてくれたのは、作家・演出家・俳優の肩書きを持つ山田由梨さん。俳優として進む道の先に、自身で物語を描く未来があった。フィクションを創作するとき、リアリティとのバランスは? どうして観る人の気持ちが分かるの? 物語の先には何がある? 丁寧にひとつずつ答えてくれた、山田さんのまっすぐな瞳を映して。

山田由梨
作家・演出家・俳優。1992年東京生まれ。立教大学在学中に「贅沢貧乏」を旗揚げ。全作品の作・演出を務めるほか、ドラマ脚本・監督、小説・コラム執筆も手がける。『フィクション・シティー』(17年)、『ミクスチュア』(19年)で岸田國士戯曲賞ノミネート。セゾン文化財団セゾン・フェローI。主な担当ドラマに、Abema TV「17.3 about a sex」「30までにとうるさくて」脚本。NHK夜ドラ「作りたい女と食べたい女」脚本。WOWOW「にんげんこわい」シリーズでは脚本・監督として参加。2025年11~12月に演劇『わかろうとはおもっているけど』を東京・久留米・札幌で上演予定。
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親の薦めで始めた子役から演出の道へ辿り着くまで

――子役を始めたことがきっかけで演技の道へ進まれたそうですが、そもそもどうして子役になられたんでしょうか?
私には姉がいるのですが、幼いころ人見知りで。コミュニケーションのために親が児童劇団へ入団させたそうです。楽しそうだからと流れで私も入団することになりました。自分の意志で子役を始めたわけではなく、いつの間にかやっていた感覚です。
――そうなんですね。演じることは楽しかったですか?
楽しかったですね。私は人見知りしない性格だったので、恥ずかしいという気持ちがなくて。楽しんでやっていた記憶があります。

――演じていて、少しずつ物語をつくる側になる気配は感じていましたか?
高校生のときに文化祭で演劇をつくったのですが、そのときに演じること以外を経験したのは大きいかもしれません。その高校は少し珍しい学校で、クラス全員が参加して演劇をつくるのですが、私は出演しながら演出や振り付けも担当したんです。そのときにみんなでひとつのものをつくる作業や過程が好きだなと感じました。
――誰かとものづくりをする楽しさは、大学に行っても感じられましたか?
はい。大学に入ったときは俳優をやるつもりでしたが、自主映画のサークルに入って、初めて脚本を書きました。先輩や同級生と一緒に一本映画を撮って。そのころから自分が物語を書くことや編集することなど、出る側ではなく裏方をやる機会がだんだん増えていきましたね。

――のちにご自身の劇団「贅沢貧乏」を旗揚げされますが、作演出に加え出演もされていましたよね?
2017年9月に上演した『フィクション・シティー』までは自分の劇団や他の劇団の作品にも出演していました。特に「贅沢貧乏」の作品をつくるときには、私が俳優として出ることよりも、作家・演出家として作品のクオリティを上げていくことのほうが重要になり、だんだんと作演出だけをするスタイルに変わっていきました。
――物語を書くことは楽しめていますか? それとも苦しいですか?
苦しまないで書いたのは最初の一本だけだったと思っていて。その後は常に苦しいです(笑)。続けることって、何でもそうじゃないですか?
物語の始まりはつくるときにやってくる

――物語はフィクションですが、山田さんはご自身の作品にどれくらい実体験や想いが詰まっていますか?
どこまでが私の経験かと答えるのは難しいですね。ですが、感じたことのある感情を起点として書いています。
――どういった感情が多いですか?
割り切れなかったり、戸惑ったり、自分の中でどういうふうに言えばいいか分からない感情を見つけたときは作品にしたいと思います。

――感情から物語を生んで育てていくんですね。
見てみたいビジュアルから入る場合もあるし、描きたい人から入る場合もある。本当に一本一本、つくり始めるスタートもプロセスも違うんですよ。
――感情が起点になる場合は、メモなどを見返していますか?
どちらかというと、作品をつくろうと思ったときに思い出します。

――山田さんのところに、自然と物語の始まりとなる感情がやってくるんですね。
もちろん私の経験した感情もありますが、友達が置かれていた状況や想いもそのときに思い出します。
何をしてもいい自由さが演劇を最強にしている

――映画や小説というフィクションもある中で、どうして演劇という手法だったのでしょうか?
演劇を始めた理由は、演じることが自分のそばにあったからだと思います。表現をしたい気持ちがあった。それに、演劇はものすごく自由なんですよ。最強の芸術だと思いますね。そういう原体験があったからかもしれないです。
――具体的にどういう体験でしたか?
大学在学中に、小劇場で演劇を観ることが好きでした。本多劇場でナイロン100℃や大人計画を観たりして。そのときに、何でもありじゃん! って思ったんです。何をしたっていい、この世じゃなくてもいい。どんな設定でも成立してしまう自由さを感じました。お客さんに話しかけることだってできますよね。
――それでご自身で始められたのでしょうか?
そうですね。演劇って、一人でも最悪できるじゃないですか。一人芝居。映画の場合は人手が必要だけど、演劇は原始的で手っ取り早いんです。
私が初めて演劇を自分で作ったのは、大学のホールで一人芝居を上演したときだったのですが、それを観てくれた友達が「次は一緒にやりたい」と言ってくれて、その流れで大学時代からそのまま演劇を続けている感じです。
ドラマの脚本は社会の違和感を届けるチャンス

――現在は演劇で作演出をする一方でドラマの脚本も書かれています。つくり方は異なりますか?
演劇とドラマで思考回路は別のところを使っています。演劇はどちらかといえばアートをやっているという認識がありますね。チケットを買った人が観にきてくださるから、ある程度自由にやっていいとも思っていて。それに、演劇というメディアでしかできないことにこだわる必要があると思います。
――例えばどういうことでしょうか?
ドラマでいいじゃん、と思える表現は演劇ではやりません。私にとって劇団でやる演劇は、演劇でしかやれないことを誰にも求められなくてもやるものだと思います。

――それに対してドラマはどのような存在ですか?
ドラマの視聴者は、たまたまテレビをつけていたらやっていたから観るような人もたくさんいます。チケットを買って観るわけじゃない。マスメディアなので、とにかくマスに届けるのはミッションであると思っていて。
――演劇と異なる部分が多いですね。
そうですね。演劇だとキャパシティが限られていますから、より多くの人に作品を届けられるのは嬉しいです。ドラマの脚本では、私が社会に思っていることや違和感、あらゆる側面でのマイノリティの声、政治などを伝えるチャンスだと思って書きます。
――反響はありますか?
私がメインとなってドラマ脚本に参加したときに書いてきた作品には、セクシャルマイノリティの人物が必ずいます。「初めて自分がドラマにいた」という声をいただいたことがありました。
特に『17.3 about a sex』はABEMAのドラマだったのですが、10代の子が観るメディアなので居場所を与えられた感覚があります。自分のセクシャリティに悩んでいる子たちが観て、もしかして自分のことかもしれないと感じてもらえたのはよかったですね。
社会と視聴者を媒介する感覚

――今はどんな社会問題を書いてみたいですか?
今は、自分の中から「これを書きたい!」と湧いて出てくることはあまりなくて。最近はこれを書いてほしい、という依頼や相談を受けます。それに対して私も今の世の中にこれが必要だから届けたい! と応えようとするときに、私の力は発揮されるように思いますね。
――7月末にはFMシアター『彼女たちの夜明け』が放送されましたね。これはどんなラジオドラマだったのでしょうか?
青森在住のレズビアン女性の話です。都市で生きるセクシャルマイノリティではなく、青森という地元で生きるようなセクシャルマイノリティの話で。
そういった地域での話は、今まで日本では描かれていなかったように思います。地方で、家族や友人に言えないまま抱えている人はたくさんいるはず。その人たちはたぶん、東京の話を自分ごとに思えなかっただろうと感じます。
――出身地ではない青森県のレズビアン女性の物語を、どのように構築されたのでしょうか?
実際に青森へ取材に行って、さまざまな当事者団体でお話を伺い書いていきました。自分が書きたいことよりも、書く必要があることがたくさんあって。脚本を書きながら、自分は「媒介者」だなと思いました。

――媒介者。
脚本家という立場だからこそ、当事者の方がお話してくださることもあって、そこで聞いたことを、より多くの人へ届くように整える作業が、私にとって脚本を書くということなのかなと。最近はそういう、媒介している感覚がありますね。
――媒介者として脚本を書くときに、どういったことを考えていますか?
自分の属性はひとつなので、自分の属性以外のことは、当事者の方のお話を伺って書くしかないと思っています。事前に勉強していても、実際にお話を聞くと想像したことのなかった人生や生きづらさがあることを知ります。わかった気になると誰かを傷つけてしまうことがあるから、知った気にならない、というのはいつも意識しながら書いています。

――山田さんの作品は、そういった生きづらさを知るきっかけになることが多い気がします。
そうですね。私は作品をつくる過程で勉強させてもらっているという意識が強くあります。『彼女たちの夜明け』でも、取材を通してさまざまなことを目の当たりにしました。だからこそ当事者の方が困っていることを私は想像できるようになったけれど、最初から何も知らずに想像するのは難しい。
私が取材をして知ったことや経験を、物語という形で提示することで、視聴者に想像したり、考えたりしてもらえたらいいなと思います。

――書く上で他に気をつけていることはありますか?
自分が経験していないことを自分の言葉で書く必要があるのですが、分かりきることは常にできない、分かった気にならない、というのはいつも一番気をつけていますね。私が聞いたことは、一部に過ぎませんから。
――分かり合おうと努力をすることはあっても、完璧に相手を分かりきることは難しいですよね。
分かりきるなんて、できないと思います。例えば、「レズビアン」という言葉は単にひとつの属性を示しているだけでとても大きな言葉です。恋愛観は、異性愛者でもみんな全然違いますよね。属性を言葉で理解しようとすると、脚本家として良くないことが起きるなと思います。
――良くないことを防ぐためにどうしていますか?
常に、その属性はその人の一部でしかないということ、あくまで人を描くという態度が大切だとドラマの脚本を繰り返し書きながら感じました。
フィクションだからこそ包める問題がある

――フィクションを書く上で、これがなくなったら書けなくなると思うものは何ですか?
感情がなかったら書けないかも。ひとえにどんな感情なのかは言い切れません。気持ちは割り切れるものではないですし。脚本を書くには、誰かの立場に立って考えて自分の感情を動かすという作業が不可欠ですから。
――演出をする上で大事にしているものも教えてください。
何だろう……。みんなが楽しいことかな。つくっている側がまず楽しくないといけないと思います。

――山田さん自身も楽しいですか?
楽しいですね。最近も芸人さんのコント演出をやっていて、とても楽しかったです。私自身が俳優をやっていた経験から、その人の良い瞬間を引き出すのは得意だなという自負があります。俳優とのやり取りで、良い演技を引き出すことは得意ですね。
――最後に、フィクションの魅力を聞けたら。
フィクションは誰かの立場に立って考えるツールだと思うので、この社会の中で役割が大きくなっていくだろうなと感じています。真面目な問題も、物語である程度楽しい時間を過ごせるように包んで届ける。そうすることでようやく飲み込んでもらえることはありますから。それは、フィクションの力だと思います。