6月某日、金曜日の17時。福岡県博多区中洲の昭和通り沿いのビジネスビルの前に、原付バイクに引かれて車輪がふたつ付いた木の箱が現れた。屋台だ。
バイクにつながれていたロープを解くとバイクのおじさんは足早に去って行った。屋台車の到着を待ち構えていたのは、小川達也さん(26)。相方の藤廉太郎さんと共に、博多屋台繋々(つなつな)」を運営する大将だ。

稀人No.014
博多屋台「繋々」
写真左:博多屋台「 繋々」大将・小川達也
1999年、福岡市生まれ。福岡大学商学部商学科卒業。大学在学中より屋台でアルバイトを開始。卒業後、地元カーディーラーでの営業を経て再び屋台へ。2022年の屋台公募に合格し、翌年、博多区の昭和通り沿いに博多屋台「 繋々」を相方・廉太郎さんとオープン。最新型の音響機器を装備した屋台で和牛もつ煮込みを看板メニューに、福岡の食材と豊富な種類のお酒を楽しめる空間を提供している。屋台以外にイベントへの出店やフード提供も行っている。
Instagram :@hakatayatai_tsunatsuna
写真右:博多屋台「にのつぎ」大将・藤廉太郎
1998年、福岡市生まれ。福岡大学商学部商学科卒業。大学在学中より屋台でアルバイトを開始。卒業後、東京の広告会社で営業を経験して福岡に戻る。達也さんと共に、博多屋台「 繋々」をオープンした後、2024年の屋台公募に合格し、福岡市中央区渡辺通沿いに、しゅうまいを看板メニューとした博多屋台「にのつぎ」をオープン。屋台以外にも、音楽イベントなどの企画・運営も手がける。
Instagram :@ninotsugi_fuk
なにもなかった場所に1時間で現れる店
2023年7月26日、ふたりは当時24歳で、福岡市最年少の屋台オーナーとなった。
達也さんは手際よくベニヤ板をはずし、屋台車を分解していく。アルバイトのふみやさんも合流し、屋台を組み立てていく。
6月の福岡は梅雨入りしていて湿度満点。屋台を組み立てるふたりの額に汗がしたたる。取引先の酒屋さん、氷屋さん、ガス屋さんもやってくる。両隣でも屋台の組み立てが始まった。
さっきまで何もなかった場所に、1時間ほどでお店が現れた。

原付バイクで屋台が運ばれてきた

運ばれてきた屋台を固定する達也さん

外側のベニヤ板を外し、屋台車を展開していく

木の軸を通し、屋根を広げていく

屋台車とワゴン車に積まれた荷物で屋台が完成した
3m×2.5mに生まれる特別な空間
屋台の開店は18時頃。18時半を過ぎた頃、ふらりと仕事帰りの女性がやってきた。ふたりの同級生だという。オープン後、月2回ほどのペースで訪れている常連さんだ。端の席に座り瓶ビールを注文すると、達也さんも水で乾杯。暑さもあり、グビグビとビールが進む。
次にのれんをくぐったのは女性3人組。東京から一泊二日で福岡を巡るという。「なに食べたい? おいしい屋台たくさんあるよ」。ニーズを聞いて他の屋台もお勧めする達也さんはまるで、観光案内所のひとのようだ。「僕らも休みの日は、他の屋台を食べ歩いてるんで」と笑顔を見せる。
愛知からの新婚夫婦は、予約したもつ鍋屋を目指して歩く途中に立ち寄ったという。「福岡の蒸し暑さにびっくりしました。ジメジメ暑いなかで飲むキンキンに冷えたビールがたまらない」。その夫婦は夕飯のもつ鍋を前に、繋々の看板メニュー、もつ煮込みを注文していた。

この日、最初のお客さんと乾杯
他にも東京からの友人を連れた地元民、海外からの観光客など、老若男女さまざまなお客さんが3m×2.5mの小さな空間で食事を楽しんでいた。
博多中洲の屋台といえば、年季の入った暖簾に昔ながらのメニューといった伝統的なイメージもある。しかし、ふたりが作る屋台空間は雰囲気が異なる。新進気鋭のイラストレーターが手がけた暖簾、最新の音楽スピーカーから流れる心地よい音楽。
フジロックフェスティバルにも出店し、地元福岡のカフェバーやクラブ、音楽シーンにもフードを提供する「繋々」。
大学卒業後、サラリーマンとして働いていたふたりはなぜ、屋台を開いているのか。オープンから2年、ふたりの軌跡をたどるーー。
心に残るにぎやかな風景
1999年、小川達也さん(26)は、福岡市東区にIT企業に勤める父と家庭を支える母のもとに、三人兄弟の長男として生まれ育った。
母の友人家族が軒を連ねる住宅街での暮らしは、上から下まで全学年の兄弟姉妹がいるかのようで、にぎやかだった。いつも中庭に集まり、お兄ちゃん、お姉ちゃんたちに遊んでもらった。
小学2年生からダンス教室へ通い始め、中学ではサッカー部、高校ではバスケ部と、スポーツに打ち込む学生時代を過ごした。
1998年、福岡市南区に生まれた藤廉太郎さん(26)は、会社員の両親のもと、ふたりの妹を持つ長男として育った。ドッジボールクラブではキャプテンを務め、学校の体育祭でも副ブロック長としてチームをまとめた。スポーツでも学校でも人前に立つことが多かったという。
廉太郎さんが覚えているのは、食事の風景。近くに暮らす親戚が多く、毎日のように家に集まり、大勢で食事をする。いつも誰かが家に来ていてバーベキューをしたりと、にぎやかな食事の風景が蘇る。
福岡の東と南で生まれ育ったふたりが出会うのは、もうしばらく先の話。

明太だし巻き卵を提供する達也さん
餃子の武ちゃんと、峰ちゃん
運命の出会いは、2017年4月。
福岡大学商学部商学科に入学したふたりは、2年生から始まるゼミに向けた授業で、300名ほどいる生徒のなかで同じ班の10名に振り分けられた。互いの第一印象はどうだったのだろうーー。
「めっちゃ元気ですね……ずっと元気でした」と廉太郎さんは達也さんを見て笑う。
達也さんにとって廉太郎さんは、高校時代に観戦していたバスケ強豪校のキャプテン。「僕は廉太郎がいた高校のバスケチームのファンみたいな感じで。その高校のキャプテンだったと聞いて、びっくりしました」
数人のグループで遊ぶようになり、徐々にふたりの距離は縮まっていく。偶然が生んだ出会いは、やがて運命的なつながりへと変わっていく。

「たっちゃんは大学時代から変わらない、明るくて誰にでもフレンドリー」と大学時代からの同級生でもあり常連のちかよさん
大学に入学してひと月が経つ頃、バイト先の居酒屋で働く先輩が達也さんに声をかけた。
「屋台で働かない?」
屋台へ足を運んだことのなかった達也さんだが、知らない世界に惹かれ、中洲屋台「餃子の武ちゃん」でアルバイトを始めた。
大学2年生になる頃、働いていた屋台の隣の大将に「アルバイトを紹介してほしい」と依頼された達也さんは、親しくなっていた廉太郎さんに声をかけた。こうして廉太郎さんは隣の屋台「峰ちゃん」で働くことになる。
「おおー、今日、お前も屋台?」とシフトが揃う日は、ふたりしてテンションが上がった。
3m×2.5mという狭い空間では、お客さんとの距離が近いことから自然と会話が生まれる。ふたりにとって屋台は友だちが集い、お客さんとつながることができる特別な空間となった。
やがてふたりの間に「ふたりで屋台できたら面白いね」との会話が生まれるように。とはいえ、現実味はなく、漠然とした夢でしかなかった。

屋台に立つ達也さんと廉太郎さん
未来を変えた、大将のひと言
2021年に大学卒業後、ふたりは別々の道を歩み始める。
廉太郎さんは就職か起業かで悩み、大学3年時に半年間休学して福岡の人材企業でインターンを経験。達也さんから1年遅れて、東京の広告代理店へ営業として入社した。
達也さんは地元のカーディーラーへ営業として入社したが、屋台で働いていた頃の充実した感覚が頭から離れなくなっていた。「給料も大きく変わらないのなら、より自分自身がやりがいを感じられる方がいい」と2022年夏、わずか1年半で会社を退職。
料理の腕を磨き、いずれは自分の店を持つと決めて、再び屋台「武ちゃん」で働き始めた達也さんに、隣の屋台「わっぜか(現在:赤之助)」の大将が声をかけた。
「福岡市が屋台の公募出しとるけん、勉強がてら受けてみたら?」
大将の何気ないひと言が、未来への扉を開く。
「まだ早いっすよ」と言いつつ、10月の〆切当日に福岡市役所へ応募書類を出しに行った達也さん。4回目を迎える屋台公募には、13区画の募集に対して65人が応募した。
公募は、屋台営業のルールや衛生面、福岡に関する問題が出題される一次審査の筆記試験から始まる。通過者は営業計画書を提出して書類審査と面接を受け、最終的に合格者が選ばれるという流れになる。
「公募に受かったら一緒にやろう」と話す達也さんに、「よし、やろう!」と返事をした廉太郎さんは、まだ会社員を続けていた。
「まさか本当に受かるとは思ってなかったので……」と笑みを浮かべる。
ところが、筆記試験を2位で突破すると「いけるかも……」と、一気に現実味が増してきた。「本気で受かりにいく」と覚悟を決めた。
毎日のように連絡を取り合っていたふたりは、2次審査の営業計画書も電話でやりとりしながら埋めていった。書いていくうちに達也さんの気持ちは固まっていった。

手際よくフライパンを揺らし卵を巻いていく達也さん
2023年2月、合格者発表のページにログインするとそこに、達也さんの番号が記されていた。
しかし、大喜びとは……いかなかった。屋台を出す区画が第3希望として出した場所だったのだ。
達也さんには馴染みのないビジネスビルが並ぶ通り。「人通りがなければ集客は厳しいのではないか」と不安がよぎった。そこで、許可が降りた区画に出店している先輩屋台主を訪ね、実際の店の様子を見せてもらった。
予想以上の盛り上がりに可能性を感じ、廉太郎さんに改めて相談すると、「やってみていいんじゃない。仕事を辞めて福岡に帰るよ」と即答してくれた。

人気の明太だし巻き卵。ふわっふわの食感
「繋ぎ、繋がれる」から命名
飲食店を持つことを目標としていた達也さんの家族は喜んでくれたが、心境は複雑だった。東京での廉太郎さんの仕事が充実していることは知っていた。
「将来のためにと休学やインターンまで経験して選んだ会社を辞めさせてしまって、本当にいいのかなって。やっと始まった東京ライフを1年弱で終わらせてしまうことへの申し訳なさもあって……でも、お願いします! って」
一方、廉太郎さんに迷いはなかった。
「いずれは福岡に帰ろうと思っていたので、会社を辞めることに抵抗はなかったです。3月に上司に『屋台やるので辞めます』と伝えて、ちゃんと引き継ぎもしたかったので6月末まで普通に仕事して福岡に戻りましたね」
すべてを決めたあと両親に「来月福岡に帰る」と報告。地元テレビの「最年少屋台オーナー誕生」のニュースを見ていた両親は、「あれ、あんたやったんね」と驚いたが止めることはなかった。
最初の仕事は屋台名を付けること。
合格発表から1週間以内での提出が求められた。焦る達也さんはノートに思いつくものを片っぱしから書いていった。その際、営業計画書に何度も記した「繋ぐ」という文字を思い出す。
「屋台で働いていて感じたこと。僕らが繋がれることもあれば、お客さんが繋いできてくれることもある。人や場所、モノとの縁が生まれていく」
「繋ぎ、繋がれる」を略して「繋々(つなつな)」
こうして、ふたりの屋台の名前が生まれた。

和牛もつ煮込みとならぶ看板メニュー「和牛もつ焼き」。プリプリのもつは噛むほどにジューシーで旨みを感じる
名前が決まれば、今度は屋台の準備だ。
設備の揃った屋台車を新品で購入すれば300万円~400万円はくだらない。しかし、ここでも屋台でのつながりがふたりを後押しした。
大学時代に廉太郎さんがアルバイトしていた「おでんの峰」の大将が、ちょうど屋台車を新しくするタイミング。これまで使っていた屋台車を安く譲ってくれることになった。新規起業者向けの融資を受けて、屋台規格の排水設備や食器、調理機材などを一つひとつ揃えていく。
店で出す料理のメニュー作りにも取り組んだ。実家暮らしが長く、冷蔵庫にある食材でよく料理を作っていた達也さんは、居酒屋っぽいメニューを考えては試作。廉太郎さんが福岡に帰ってくるたび、試食をさせた。「旨い」「しょっぱい」と意見をもらいながら、メニューやレシピが定まっていった。
博多らしさを感じてもらえるようにと、店の看板メニューは和牛もつ煮込みに。臭みがなく甘味のあるもつを仕入れるために、飲食店の知り合いに紹介してもらい、10軒以上の精肉店をまわった。福岡の食材と豊富な種類のお酒を楽しめる居酒屋のような店を目指した。
廉太郎さんが福岡に帰ってきたのは、オープンまでひと月を残した6月末。
「とりあえずふたりで川サウナに行きました。緊張感も特になく(笑)。東京にいた間もずっと話してたんで」と達也さん。

お客さんと話し、料理も作る
記憶がない、オープン初日
2023年7月26日、ついに博多屋台「繋々」がオープンした。
その日のことを尋ねると、ふたり揃って「もはや、記憶がない」と顔を見合わせ笑う。
ふたりの友だちが屋台に押し寄せた。料理は間に合わない、洗い物は山積み。オペレーションが回らないまま、気付けば午前2時。「やばい終わらんぞ」と大慌てで片付けた。初日の売上は目標8万円を超えた10万円だった。
アルバイト時代とはまったく異なる感覚だった。調理器具の配置も決まっておらず、効率が悪い。洗い物がたまるなか、次々とお客さんがやってくる。
「この状況はいつまで続くのかーー。9月頭の糸島サンセットライブまでは頑張ろう」とふたりで目標を立て、お店を開き続けた。
一番辛かったのは身体だった。6月まで日中勤務だった廉太郎さんの身体が昼夜逆転の生活についていかない。買い出し先で車から動けなくなることもあった。
「まじでダメでした。最初の3か月は本当にきつくて、家に帰ってもごはんが食べられなくて」と廉太郎さんは渋い表情。達也さんも「風呂にも入らず気絶してることがよくありました」と苦笑する。
18時から朝4時まで営業、6時から14時まで睡眠、16時から買い出しへ。一般的な暮らしとは真逆の生活だった。

コンパクトな空間に肩をならべる。暖簾を手がけたのは、イラストレーターBEYさん
そして、オープンから2か月ほど連勤を続けた8月の終わり、ふたりは限界を迎える。
いつものように車で買い出しを済ませ、屋台近くのコインパーキングに到着した。しかし、ふたりとも車から出ようとしない。車中で10分ほど沈黙が流れた。
「帰らん?」
廉太郎さんが重い口を開いた。
「帰ろうか」
その日は屋台を休みにして帰った。オープンから張り詰めていた体力の糸がプチンと切れた瞬間だった。

「繋々」1周年記念イベント
音楽が引き寄せる縁
オープンして3か月が経つ頃、ひとりの男性客が店を訪れた。
音響機器メーカーの社員で、開発中の最新型立体音響スピーカー「シーイヤーパヴェ」のデモ機を取り出し、音を聞かせてくれた。ふたりのリアクションは、クラウドファンディングのPR動画に使用された。
その人は福岡に来るたびに繋々に立ち寄るようになり、そのスピーカーを繋々に設置してくれた。10cmのコンパクトなスピーカーは、会話を邪魔しない心地よい音楽空間を生み出した。

真ん中に置かれているのが立体音響スピーカー
屋台がもたらした縁は、さらに広がっていった。
福岡市警固の音楽酒場「TRESOL」で働いていたイラストレーターと意気投合した達也さんは、屋台の暖簾を描いてもらうことに。オーナーとも親交を深めると、2024年3月、TRESOLのイベント開催時に屋台ごはん「もつ煮込み」を提供することになった。
フライヤーに「繋々」の名前が載り、屋台以外でのフード提供も可能なことが知られると、イベントでの出会いから引き合いが来るようになった。
福岡のパーティーコレクティブ「lit」のオーガナイザーと出会ったふたりは、屋台が終わるとクラブ「kieth flack」で開催されるlitのイベントに遊びに行くようになった。頻繁に顔を出すうちにお店のスタッフとのつながりができて、パーティーやイベント時のフード提供の依頼を受けるようになった。
さらに、TRESOLの常連客だったフジロック関係者に話を聞いて、出店公募に応募。2024年7月、博多屋台「繋々」はフジロックへの初出店を果たす。
「来場者は3日間で10万人。20時間営業もあって……今までの人生で経験したどんなスポーツイベントよりもハードでした。今自分がどこで何をしているのかわからなくなるくらい(笑)。いい経験になりました」と達也さんは語る。

クラブのイベント出店

フジロックへの出店
人が人をつなげてくれる
繋々をオープンして2年、達也さんは変化を感じていた。
最初は「屋台やっとるんか」と言われていたのが、今では「繋々やってるんやね」と言われるようになった。口コミやイベント出店で「繋々」という名前を覚えてくれる人が増えてきたのだ。
出張や観光でたまたま店を訪ねてきた人が、今度は「繋々」目当てで福岡を訪れてくれる。「大阪から仕事でひとりで来ていたお客さんが、家族を連れて来てくれた時は嬉しかった」と廉太郎さん。
ひとりで来て、次は家族や友だちと。同僚や彼氏彼女を連れて来る人も。北海道から沖縄、海外からもお客さんが訪れる。
「楽しい場所として受け取ってもらえているかなって思います。お客さんが喋りやすい雰囲気作りは大事にしています。僕らも話しかけますし、お客さん同士も話しやすいように。結果的に飲食と一緒に会話も楽しかった経験として残ればいいなと思います」と達也さん。

アルバイトのふみやさんとりゅうたさん。ふたりとも友人のつながりで 「繋々」で働くことになった
10年の先につないでいくもの
取材も終盤、ふたりにこれからのことを尋ねると意外な結末が待っていた。
福岡市では屋台文化の継続と新陳代謝を図るため、新規屋台の営業期間を制限している。最初の営業許可は3年間で、その後2回の延長申請が可能。1回目は2年以内、2回目は5年以内で、申請と選考を通過すれば10年間の営業ができる。新規開業の「繋々」の場合、営業できるのは最長2033年まで。その時、ふたりは35歳ーー。
「将来は屋台での経験を活かして飲食店を開きたいんです。なぜ飲食なのかと言われると……みんなでご飯を食べる場って、楽しくないですか?」と達也さんはガハハっと笑う。
「僕は飲食にだけに興味があるわけではないんです(笑)。今もイベントを企画したり屋台以外のことも手がけています。楽しいこと、面白いことをやっていたい。その上で、良い雇用を生み出していきたい。人材紹介や広告会社で働いてみて、すべての人を幸せにできなくても、自分の周りの人、一緒に働く人を幸せにしたいと思ったんです。長く付き合っていけたらうれしいですよね」
そう語る廉太郎さんは、なんと2025年6月4日、自身がオーナーとなる博多屋台「にのつぎ」を天神渡辺通りにオープンしていた。
「繋々」と同じ屋台公募で2024年、廉太郎さんはぶっちぎりの総合1位の成績で合格を果たした。屋号の「にのつぎ」には、ネガティブな気持ちや出来事は"にのつぎ"にして屋台や飲食の時間を楽しんでほしいという思いが込められている。

廉太郎さんがオープンした博多屋台「にのつぎ」

オープンは取材したほんの1週間前。
きっかけは「繋々で働きたい」という若者が4、5人現れたことと、将来ふたりがやりたいことを実現するための売上確保。廉太郎さんと同じ2024年の新規屋台には、ふたりより若い世代のオーナーも誕生したという。
ふたりが切り拓いた道は、確実にあとの世代にバトンをつないでいる。
かつて隣同士の屋台で働き、25歳で「繋々」を立ち上げたふたりは、今ではそれぞれが屋台の大将となり、スタッフを抱えて店を回す。これからもふたりで、新たな挑戦を続けていく予定だ。
「今度の水曜にクラブでイベントあるから、間に合うように屋台を閉めてイベント行こう」とアルバイトのふたりに語る達也さん。
「仕事をしている気はしないですね」と廉太郎さん。

オープンから1週間、満席でにぎわっていた

「にのつぎ」の看板メニューは、しゅうまい。屋台からほくほくの湯気が上がっていた
取材中、お客さんやスタッフとのやりとりを見ていると、とにかく楽しそうだ。大学時代にふたりが屋台で感じた活気や楽しさを味わいたいと、若者たちがふたりのもとに集まってくる。
「この2年間で出会った人たちのおかげでいろんな仕事につながり、取材までしてもらえるようになって、感謝の気持ちでいっぱいです。休みに遊びに行っていたパーティーやイベントも、今に繋がってるんですよね」
終始にこやかだった達也さんが、静かに言葉をかみしめた。

22時近くの屋台
「繋々」から歩いて18分ほどの「にのつぎ」で写真を撮り、再び「 繋々」に戻った頃には、汗だくになっていた。「お帰りなさい、なにか飲まれますか?」とアルバイトのりゅうたさんが声をかけてくれた。
「じゃあ、ハイボール」
冷えたグラスを握った私が「カンパイ」とグラスを掲げると、達也さんが「カンパイ!」と返してくれた。
繋ぎ、繋がれるーー。
屋台の名に込められた思いは、いま現実となっている。福岡の夜に灯るふたつの明かりの下、今日もまた新たなつながりが生まれていく。

執筆
サオリス・ユーフラテス
1979年、佐賀生まれ、福岡市在住。19年の会社員生活を経て、2021年よりフリーライター。経営者インタビューや多様な生き方を取材・執筆。正しい道より楽しい道を。最短距離より寄り道を楽しみながら、旅の途中。
X :@osiris76694340

編集、稀人ハンタースクール主催
川内イオ
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、イベントなどを行う。