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A.T.カーニー日本法人会長 梅澤高明さんロングインタビュー

100年の間、ずっと面白いことに挑戦し続けたい。

author: 梅澤高明date: 2021/10/31

日産自動車からMBA留学を経て、米・戦略コンサルティング・ファームに転職。1999年に帰国後は、経営コンサルタントとして日本の大企業のグローバル戦略を数多く成功に導いてきた梅澤高明さん。クルマ好きで、自動車メーカーにも勤務した経験を持つプロフェッショナルな視点に加えて、マーケティング戦略を手掛けた視点からのブランド論など、多様な観点からリポートする連載企画。第1回目は、ビジネスの成功だけではなく遊びにも精一杯取り組む梅澤さんならではの人生100年論を、モータージャーナリストの川端由美さんがインタビューする。

「売れる」ということを見せつけられた学生時代

次回からは梅澤さんの気になるクルマを選んでの試乗記の連載がスタート。初回はマクラーレン「720スパイダー」の試乗を掲載予定。乞う、ご期待!

川端 梅澤さんって、何をとってもスゴいので、どこからうかがったらいいか悩みますね……。米・戦略コンサルティング・ファーム「A.T.カーニー」で経営コンサルタントとしての活躍が一番有名なキャリアだと思うのですが、新卒では日産自動車に入られたんですよね。どんな経緯で、転職されたのでしょうか? さらに、梅澤さんには、もう一つ、DJとしての顔もありますよね。

(写真左)CIC Japan会長|A.T.カーニー日本法人会長 梅澤高明さん/(写真右)モータージャーナリストの川端由美さん

梅澤 先に音楽の話をしちゃいますね。僕が大学生だった80年代は、第一次インディーズブーム。僕もロックバンドを結成して、インディーズレーベルから合計9枚リリースしました。

バンド活動は大学3年生から本格的にやるようになって、年2回は車に機材を積み込んで、全国のライブハウスを回るツアーを敢行する生活でした。「音楽で食っていくんだ」という意気込みもあったのですが、アルバムを何枚出しても、上限は5000枚と頭打ちなんです。しっかりした固定ファンがいるから、ライブは満員になるんですが、そこからなかなか増えないという時期が続きました。

ロックバンド「G―SCHMITT」のベーシストとして活動していた東大時代の梅澤さん

同時期に同レーベルに所属していていたのが、「AUTO-MOD」というバンド。BOØWYの布袋寅泰さん(ギター)と高橋まことさん(ドラム)、PERSONZの渡辺貢さん(ベース)という、そうそうたるメンバーが掛け持ちで参加していました。

さらに、イベントの「対バン」でよく共演していたのが、REBECCAだったんです。ライブハウス時代から、ステージに上がった布袋さんの神がかったオーラや、REBECCAのNOKKOさんの魅力はやっぱりひと味もふた味も違ってました。当然のように、布袋さんたちも、REBECCAも、1年後にはメジャー・デビューして、あっという間に武道館をいっぱいにするメジャーバンドとなっていきました。

一方で、自分たちは1年経っても、同じようなライブハウス回り。「売れる人との違い」を痛感させられましたね。本当の才能と比べて、輝かんばかりのオーラを目の当たりにして、スパッとあきらめられることができたんだと思います。

川端 そこまで本格的にプロとして音楽活動をやっていて、東大もきちんと卒業されているという段階で、十分に「スゴい」と思ってしまいます。

梅澤 もともと大学は6年かけて卒業しようと思っていました。音楽でブレイクするには時間がかかると見越して、大学3年から6年までの4年間でプロとしての道筋をつけて、大学も卒業できる計画でした。でも、本気の音楽活動の3年目で諦めると決意したので、当初の予定より1年早い大学5年生で卒業。自分的には「飛び級」と呼んでいます(笑)。

大手銀行を蹴って、ゆるいノリで日産に入社

川端 音楽という目標を見失った時期が、社会に出て就職する時期に重なっていたんですね。

梅澤 そうですね。学生時代はとにかく音楽漬けだったので、それをあきらめて、「さて、これからどうするか」と考えました。「音楽以外で、自分が好きなものは何だろう」と考えたら、それがクルマでした。「じゃあ、自動車メーカーで働こうかな」という、わりといい加減なノリから日産で働くことになりました。

なぜ日産だったのか、というと、これも偶然とノリの結果なんですが。実は、就職活動の予行練習で大手銀行を受けたところ、内定をもらえたんです。でも、面接を重ねる度に「僕には向いてない」と感じて(苦笑)。たまたま、その銀行の内定者が集合する日にバンド仲間の友人がいて、彼に「ここの銀行で働くの?」と聞いたら、彼も「イヤ、無理だと思う」と。笑っちゃいますよね。その彼が、翌日に日産の面接に行くと言うので、連れて行ってくれと頼んで、一緒に面接に行ったんです(笑)。

当時の日産はゆるいところがあって、「なんか変なヤツがきたぞ」と、アポもないのに面接してくれて、その日のうちに「お前、面白いヤツだから、うちに来いよ」と内定をくれました。この超軽いノリが自分には合っているなと、そのまま就職を決めました。

川端 そんなことって、あるんですね(笑)。ちょっと驚きです。

梅澤 入社して1年目は本社の宣伝部に配属されたんですが、2年目は福井に転勤して営業をやりました。1日最低30件の訪問販売をするのがノルマですが、しばらくは鳴かず飛ばずでしたね。

福井で2年目を迎えた頃、シルビア、セフィーロ、シーマといった日産の人気モデルになる新車の発売ラッシュが始まりました。「訪問販売なんてやってられるか」という気持ちでいたのですが、この新車販売をきっかけに地域独自のメディア・キャンペーンを仕掛けました。

DMを送ったり、新聞広告を出したりするだけではなく、本社勤務時代のツテを活用して、チーフエンジニアを呼んで、対談イベントなどを仕掛けて、それを地方でよく読まれるメディアに掲載して、それを見たお客さんが店舗に訪問してくれるのを待つという、当時としては新しい売り方に挑戦してみました。これをきっかけに、鳴かず飛ばずだった僕が、いきなりトップセールスになりました。

本社の宣伝部でやっていたノウハウが役立った部分もありますが、よりリアルに現場のマーケティングを体験する機会となりました。

アメリカ留学を経験して、現地で転職

MITのビジネススクール留学中の梅澤さん

川端 その後、日産からアメリカのMBAコースに留学をされたんですよね?

梅澤 福井から本社に戻って、しばらくは営業支援や人材開発、マーケティングなどをやっていました。日産ではトータル9年働きました。その後、社内留学制度を活用して、米ボストンにあるMITのビジネススクールに2年間留学した際に、どうしてもアメリカで仕事をしたいと思うようになりました。いくつかコンサルファームを受けて、今のA.T. カーニーに転職しました。

川端 アメリカで働くならば、日産の経歴を生かせる自動車メーカーのビック3(GM、フォード、クライスラー)という選択肢を考えたりはしなかったのですか。

梅澤 その逆で、アメリカで仕事はしたいけれど、ビッグ3にだけは行きたくなかった。日産を辞めて、どうしてわざわざGMに行くんだ?という気持ちでしたね。

川端 確かに90年代は日本車の全盛期で、アメリカ車は全然売れていませんでしたからね。

梅澤 それでコンサルファームに就職して、最初の1年半くらいは自分の強みが活かせる自動車業界のチームで働きました。まさにデトロイトで、BIG3のコンサルタントをやっていました。

川端 帰国子女でもなく、留学も社会人になってから。いわゆる“純ジャパ”の梅澤さんにとって、英語のハードルは相当高かったんじゃないかと想像します。

梅澤 英語でのコミュニケーションは本当に大変でしたね。もともとビジネススクールというところは口が達者な人間がそろっていて、その1/4がコンサルティングファームに行くんです。周りは、頭もいいが、コニュニケーション能力にも突出している人間ばかり。そこで英語のコミュニケーション能力で勝負しようと思っても、勝ち目はありませんよね。

じゃあ、どうするか。文章を書くか、アメリカ人がやりたがらない定量解析をやって頑張るしかありませんでした。日本に戻ってからはあまりやらなくなりましたが、アメリカでは数字を駆使するタイプのコンサルタントでした。

川端 その経験が基礎をつくっている部分もあるんでしょうね。梅澤さんがすごいのは、自分に不利な状況でも、強みを生かす道を瞬時に見つけているところだと感じます。

日本産業の大変革期に時代を切り拓くコンサルになる

A.T.カーニーに勤めていた時代

川端 1999年に日本に帰国して、A.T.カーニーの東京オフィスに異動されて、日本企業相手にコンサルタントとしてさらにキャリアを広げることになるんですね。

梅澤 日本への転勤は自分から志願しました。アメリカで働きたいという希望は十分やり尽くしたし、新しいチャレンジの場として、日本に戻るのもいいタイミングだな、と考えたんです。

90年代終わりというのは、日産が潰れかけたり、山一證券やダイエーも破綻したりといった時代。絶対安泰だと信じられていた大企業が潰れるという、日本にとっては初めての構造改革の渦中にありました。そういう過渡期だからこそ、コンサルタントして日本の大企業の立て直しをサポートすることに全力を尽くしていました。

さらに2000年代に入ると、世界に向けたグローバリゼーション戦略とその基盤づくりをやりました。以前にアメリカ企業のグローバリゼーションを数多く手掛けていたので、そういう知見が肌感覚で身についていたのが大いに役立ちました。

川端 アメリカと日本では、働き方は変わりましたか?

梅澤 日本でもアメリカでも、違う意味でハードワークでした。アメリカはスペシャリストの国で、かつコンサル市場では、当時からかなり分業が進んでいたんです。まず、「君は何ができるの?」というところが、重要になってきます。

それに比べて日本では、いい仕事をしていればジェネラリストでも評価されます。当時はまだ日本のコンサル市場も小さかったので、深いけれど狭いスペシャリストより何にでも挑戦できるゼネラリストのニーズが高かったというのもあります。そういう日本のマーケットが僕には合っていたし、いろいろチャレンジできる日本での仕事のほうが圧倒的に面白かったですね。

目の前の面白いことに挑戦し続ける

川端 梅澤さんは、節目節目でチャンスを掴んでいるのが、さすがですよね。バンドから自動車メーカー、アメリカ留学とコンサルタントとしての基礎づくり、そして日本での活躍。どれもちゃんと目の前にあるチャンスを自分の強みで生かしている。

梅澤 出たとこ勝負ですけどね(笑)。ゴールを設定してそこに向けて走るというより、目の前にある面白そうなことにとりあえず手を出してきたという感覚です。だから目標に対してどれくらいの場所にいるなんて全然わからない。今、自分がどこにいるのかすら、よくわからないという感じです。面白そうだなと思ったらとりあえずやってみる。できるかどうかなんて、やってみないとわからない。

川端 「面白がれる」「失敗を恐れない」というのは、一つの才能だと思います。面白がりながら、アメリカでも日本でもハードワークをこなしてきて、今があるワケです。

梅澤 若い人たちにとっては、「ハードワークなんて古い」という感覚かもしれませんが、そういう時期があってもいいはず。精一杯やらないと、見えてこないことって絶対あると思います。

今やっているCICというスタートアップのコミュニティに集まる人は、起業家精神があるから、やっぱりクリエイティブなんですね。そういう人たちに時間の枠を当てはめるのは、ナンセンス。生産性って、TPOや環境で大きく違ってくるものです。本当にいいチームで仕事が楽しくてしようがない環境なら、生産性なんて人の10倍くらいすぐに上がるもの。そこを時間で区切っても、意味がないんです。

もちろん、その一方でキャリア形成は短距離走ではないので、心身を壊してしまっては本末転倒です。メンタルや体力、やりたいことのバランスをどうとるのか。自分でその判断ができることが、すごく大事になってきます。

川端 すでに大きな成功を収めている梅澤さんがCICを始めとする新しいチャレンジに次々挑戦できる原動力はどこにあるんですか。

梅澤 そういう挑戦をすることが自分にとってすごく大事だし、面白いからですね。

25年間、コンサルタントとして日本の産業の発展に寄与したいとやってきました。自分で言うのもなんですが、いい仕事をしてきたという自負があります。しかし、マクロで俯瞰すると、「なんだ、これは?」という日本の産業の体たらくぶりじゃないですか。

日本の大企業がよくなれば、日本全体がよくなると思っていましたが、それは部分でしかありませんでした。そのことに気づいた頃、CICの日本進出の話があったんです。これまでとは全く違う視点から日本を変えていけるチャンスだと考えてジョインして、気がつくと会長になっていました(笑)。

もうひとつ、ナイトタイムエコノミー推進協議会という一般社団法人を設立して、観光の仕事も始めています。これがまた、面白くて仕方がない。簡単にいうと、日本全国の観光資源を発掘して磨く仕事です。有能な専門家を巻き込んで、現地に事業として持続するスキルを注入してもらう仕組みをつくっています。

川端 楽しそうですね。まだまだ、やりたいことがいっぱいあって、面白がりながら仕事をしているのがひしひしと伝わります。

Photo: Leslie Kee

梅澤 僕は100歳まで生きると決めていて、98歳までは現役のつもり。そう考えると、まだまだ何十年もあるじゃないですか。コンサルタントの次のキャリアをどうしようかと思っていたら、魅力的な仕事との出会いが次々とやってきました。

現時点でのキャリアゴールを敢えて言えば「現役世界最高齢のDJ」ですね。80歳超えでベルリンやイビザのクラブをツアーして回っているイメージでしょうか(笑)。


取材を終えて一言

梅澤さんのことは、経済ニュースのコメンテーターであったり、米戦略コンサルのトップというイメージを通して存じ上げていましたが、実際にお話をうかがうと、“単なる成功者”ではないことに気づかされます。既存の型にはまらない非常に柔軟な思考回路の持ち主で、私たちと同じように、失敗や挫折も経験されています。

ただ、梅澤さんのスゴいところは、困難な状況に陥ったときこそ、課題の本質を見極め、その課題を解決できる手法を考えて、実行に移してみようと考える真摯な姿勢を常に崩さない点です。課題の本質を見極め、より良い解決手法を考えて実行し、もし失敗ならまた次のアイデアを考えて挑戦してみる。

ビジネスでも、バンド活動でも、DJでも、そのプロセスは変わらず、成功するか失敗するかは、やってみないとわからないから、まずはやってみる、ということを何度も繰り返して、成功するまで漕ぎ着ける。そんな強い意志の持ち主だと感じます。

Text:工藤千秋 Photo:下城英悟

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A.T. カーニー日本法人会長/CIC Japan会長
梅澤高明

東京大学法学部卒、マサチューセッツ工科大学(MIT)経営学修士。日産自動車を経て、A.T. カーニーのニューヨークオフィスに入社。日米で25年にわたり、戦略・イノベーション・マーケティング・組織関連のコンサルティングを実施。CIC Japan会長(兼務)として国内最大規模の都心型イノベーション拠点CIC Tokyoを2020年秋に開設、スタートアップ支援にも取り組む。観光、都市政策、知財戦略、クールジャパンなどのテーマで政府委員会の委員を務める。一般社団法人「ナイトタイムエコノミー推進協議会」(JNEA)および「自然文化観光機構」(ATCT)の理事として、富裕層観光、文化観光、夜間観光の発展に注力。一橋ICS(大学院国際企業戦略専攻)特任教授。著書に『NEXTOKYO』(共著、日経BP社)ほか。 Photo: Leslie Kee
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